NHKの大河ドラマ真田丸も佳境をむかえどんどん面白くなってきました。
真田信繁も真田幸村と名を変え大阪城へと乗り込み大坂冬の陣、大坂夏の陣へと活躍の場を移していきます。
そんな真田幸村の最後を一足先に知りたかったので調べてみようと思ったんですが生存説があり興味津々で調べてみました。
目次
真田幸村の最後 史実では
まず真田幸村の史実での最後は
豊臣秀頼に大将として出陣願ったが聞き入れてもらえず、布陣していた茶臼山より徳川家康本陣に向かって突撃を試みます。
そんな真田幸村の突撃に徳川家康本陣は崩れることとなり武田信玄に敗れて以来倒れたこともなかった馬印も倒れ、徳川家康は2度も自害を覚悟するほどに追い詰められたと言います。
しかしそんな突撃で疲弊していた真田幸村は四天王寺近くの安居神社の境内で休んでいるところに西尾宗次に発見され【儂の首を手柄にされよ】との最後の言葉を残して打ち取られたと言います。
鹿児島・薩摩落ちの生存説とは
西尾宗次が討ったのは本人か?
まず第一に西尾宗次が討ったとされる武将の首は相手を知らずに互いに戦った末に討ち取り、そのあと家臣が陣中見舞いの際に信繁の首と判明した説もあり、最後の時を西尾宗次が自慢げに話したようでなかなか幸村の首とは断定できなかったそうです。
それに幸村には多くの影武者が存在していたようで有名な名乗り【我こそは真田幸村なり】と突撃し次々と討ち取られ家康の前には影武者の首が届けられどれが本物かわからなかったとも言います。
ではなぜ生存説があるのか?
大坂夏の陣後、真田幸村は豊臣秀頼を連れて薩摩の方に逃げのびたと言われています。その証拠に大坂方面では【鬼のようなる真田が、花のようなる秀頼さまを連れて、 退きも退いたり、鹿児島まで】という唄が広まったとされていて(実際のところは真田幸村が小男で秀頼は大男なんですがね)生存説がまことしやかに囁かれていたようです。
鹿児島・薩摩落ちの証拠は
鹿児島には幸村の墓や秀頼の墓があると言われています。
幸村は鹿児島県南九州市頴娃町雪丸という地域がありますがそちらに墓があると言われておりその地名雪丸(ゆんまい)幸村の名前からきていると言われています。
秀頼の墓は鹿児島県鹿児島市谷山中央4丁目の木之下川沿いの福元さんの家先に置かれているようです。
なぜ鹿児島・薩摩なの
当時の藩主島津義弘は豊臣恩顧の忠臣で関ヶ原の際も西軍につき【島津の退き口】(関ケ原から逃げのびる際の退却戦。300名いた家臣が80数名にまで減ることとなった激戦であったが無事薩摩まで逃げのびる)で逃げ延びた島津は関ケ原語も家康を苦しめたと言われています。
そんな島津義弘を頼って秀頼を連れ幸村は落ちのびたと言われております。しかし薩摩で厚遇された幸村だったが翌年に過労・心労のため病気で没しているとされ秀頼も翌年幸村を追うようになくなったと伝われています。
まとめ
このほかの生存説には奥州(東北・秋田近辺)落ち着いた説や九度山の真田庵にひっそりと暮らして信之から援助してもらっていたという説もあります。
ただ幸村の戦場で死ぬ際に感銘を受けたものが【日の本一の兵(つわもの)】と称した逸話も有名で生存説はないと言われる方も多くいらっしゃいます。
真田丸最終回まであと2か月。三谷幸喜さんはどのような結末で終わらせるのか期待に膨らみますね。
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